アートとヌード ヒトの究極の美しさ
(ライターFT)
美しさって着飾っても着飾らなくても、美しい人は美しい。
ヌードでもそうでなくも美しい人は美しい。
美しさって時代や国によっても基準は異なり、その人の価値観によっても異なってきます。
ヌードだけど、「ヌードじゃない」。
そうなんです。
何言ってんだ?って感じですね。これ、「人間が限りなく自然に近づいた姿」というのが正しいかも。セクシーとか、エロいとか、そういう感じしないでしょ?
この世でもっとも美しいのは
現実と幻想、自然と人工。その境界線を消しさる手段のひとつとして、synchrodogsが選んだのが、この作品をつくること。
直感、潜在意識、自然現象、科学、どんなものをつかっても「説明することができない」ものの本質に、人間の身体をとおして向き合います。
雨上がりの川の水面のキラキラ、雪面に反射する光、川にしな垂れる枝、指のすきまをすり抜けていくやわらかい砂。美しい自然には、人間が人間でいる限り勝てっこないって、わかっている上でのこと。
人間は、どこまで「超自然」に近づいていけるんだろう?
上記リンクのアート写真、とても美しく、自然と同化していますね。
ヌードデッサンは美しいと感じますが、ヌードが持つエロス的なパワーはないように感じます。これはなぜこうなるのでしょう。中にはエロ目的のデッサン会に参加する人もいるそうですが、私はこうしたヌードデッサンでエロスを感じることはありません。
人が持つ美しさに焦点を当てているかでしょうか?
裸婦クロッキー会の動画などをみていると、そこにはヒトのカラーが存在し、エロスを感じます。しかし鉛筆などのデッサンではモノクロになり、エロスを感じなくなります。これは描き手の心理描写が反映されているのか、アート的になっています。
裸婦クロッキー会の動画などをみると、鉛筆デッサンのようなモノクロではなく、カラーがありますので、かなりエロティックにも思えます。
誰も何も言葉を発しないので、会場の雰囲気はかなり真剣で冗談などは言えない状況ではないかと思われます。

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公園などにある裸婦像、何気なくみていますが、よくみるとヒトの美しさが何気に表現されていて目を奪われることがあります。
これはエロティックな感覚ではなく、アートとして”美しい“と感じる感性でしょうか?
少し気をつけて街中をみると、いつもとは違ったアートな世界が広がっています。
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